セツゾク

Hayato Shimada Portfolio & Blog

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デザインという病

どうしてこうなった

「少ない方が豊かである」

造型にしろプログラミングにしろ、考え抜いた極地に機能だけが残る美しさがある。

パズルのピースがぴったりとハマる気持ちよさというか、これを知ってしまっては設計(Design)をやめることができない。

先日嫁から、販促で使うPOPを頼まれた。

「適当でいいよ」と言われるが、「適当なものを作る」事に”自分が”納得できないのだ。

「美しい=絶対」という価値観に縛られてしまっていて、それが苦しい。

デザインは宗教のようなもので、哲学を知れば知るほど課せられる教義が厳しくなっていく。

コストという縛り

僕たちには限られた時間とわずかな資金しか無い。

これはデザイン教における唯一の救いだ。

あらゆるプロダクトにおいて、コストは設計に勝る。

というか寧ろ、設計はコストの為にあるものだ。

設計にのめりこむと、コストを度外視してしまうことがあるが、これほどナンセンスなことはない。

限られた人生こそ美しく、その生を究極に彩るためにデザインが存在する。

早く、安く作ることで、余剰を生み出す為にデザインが存在することを忘れてはならない。

コストは妥協点ではなく、投げたボールが放物線を描く為の重力に似て美しいものだ。

コストとデザインの一致

とはいえ、ボールを投げる力=設計力を高めていくことは絶対であろう。

あらゆる重力場(プロダクトの要件)において、最適な角度でボールを投げ続けなければならない。

パフォーマンス(効率)にこそ美しさが宿る。

高級時計を見ても殆どの人は「高い」という感想しか持たないし、非効率なデザインが生み出した安売りには目をそむけたくなる卑しさがある。

つまり、整然としたコードを見て美しいと思うのは設計者の自己満足だということ。

プログラムの予期しないバグは制約が生み出したデザインの極致である。

時間が無くて次の設計者に頼むコストパフォーマンスの高い仕事例